後漢末期の情勢
前の記事で、三国志の舞台は黄巾の乱から始まると書きました。しかし、それにはまず、当時の中国、もとい後漢の情勢を知らなければ、なぜ黄巾の乱が起きたのかがわかりません。そもそも、後漢とはなんぞやという人のために触れていきたいと思います。
中国の最初の帝国は、漫画「キングダム」で有名な「秦」です。秦の始皇帝は急進的な政策を無理に行い、また始皇帝の死によって中華は再び戦乱の世に逆戻りしました。
この戦乱の世で統一を果たしたのが、「項羽と劉邦」の劉邦。彼は「漢」という安定した統一王朝を開きました。しかし、「漢」はある3つの勢力に脅かされることになります。それは、官僚・外戚(皇后の一族)・宦官(去勢された皇帝の側近)です。
漢の初期には劉邦の皇后一族である呂氏がほぼ漢を乗っ取る寸前までいきました。さらに一時期、外戚の王氏が王朝を簒奪し、「新」という国を建国しました。「新」は15年で滅ぼされ、漢が再興されたのですが、この「新」以前の漢を「前漢」、以降を「後漢」と区別します。
「後漢」が建国されて順風満帆かと思いきや、「前漢」と同様、外戚が猛威を振るいます。また、外戚に対抗するため、官僚・宦官も謀略を巡らして権力争いが行われます。
5代殤帝は生後100日で即位、満1歳になる前に毒殺。9代沖帝は1歳で即位して半年で毒殺。
10代質帝は7歳で即位、外戚の梁冀将軍にたいして「跋扈将軍」と罵ってしまい、在位1年で梁冀将軍に毒殺されました。
しかし、11代桓帝は即位時14歳。彼は宦官の中常侍(皇帝の身の回りの世話をする役職)の協力を得て、梁冀将軍とその一族を皆殺しにしました。外戚の専横から解放された桓帝は、宦官たちに養子を迎えることを許可しました。これにより、今度は世襲した宦官による専横が蔓延ります。
少し話がずれますが、このとき曹騰という宦官が夏侯嵩(後の曹嵩)を養子に取りましたが、この養子が曹操の父親です。
12代霊帝においては、財政の悪化に伴い、「売官制」を施行します。これは字の如く、お金で官位を購えるということです。曹嵩は太尉(軍事長官)の官位を1億銭で買ったとされています。お金で地位を買った人は払ったお金以上のリターンを求めるため、国民に重税を課したり、賄賂を受け取ることに夢中になりました。
このとき、天災や飢饉が発生していましたが、政治の現場では民のことを顧みられなかったことで経済は破綻しました。そして、三国志の幕開けともいえる「黄巾の乱」が起きるのです。
黄天まさに立つべし!
では、「黄巾の乱」について説明したいと思いますが、首謀者である張角という人物についてよくわかっていません。「三国志演義」の彼は科挙に合格できていない浪人生の設定でしたが、漢の時代に科挙はそもそもありません。そして、スピリチュアルな体験をします。
張角が、ある日、薬草を採りに山に入ったところ、老人に出会い、三巻の書を授けられます。
老人「これは『太平要術』という。この書をよく読み、乱れた天下を救うがよい」
張角「あなたのお名前は?」
老人「南華仙人」(名乗るのと同時に姿が消える)
以上、「三国志演義」の脚色ですが、張角は「大賢良師」と称し、「太平道」を開いて、病に苦しむ人々を救いました。この話は村から村へ急速に広まり、信徒が数十万に膨れあがります。張角はこの信徒たちを36の方(旅団、師団に相当)にわけ、黄色い巾を頭に巻かせます。これが黄巾賊の由来です。
そして、黄巾賊のスローガンを旗に掲げます。そのスローガンとは、
蒼天已に死す 黄天まさに立つべし 歳は甲子にあり 天下は大吉ならん
「蒼天」は漢王朝、「黄天」は太平道を表します。「甲子」とは、十干(甲乙丙丁庚辛壬葵)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせて60で1回りする「干支」という暦の数え方の最初の年のことです。
さらに、張角は、反乱を成功に近づけるため、政府側に馬元義という部下を送ります。その結果、中常侍の封諝と内通し、甲子の日(3月5日)の挙兵に内応する約束を取り付けることに成功します。
ところが突然、馬元義の部下である唐周が十常侍(中常侍の中でも特に権勢を振るった宦官)に密書を証拠として告発しました(理由は不明)。こうして、馬元義は処刑、封諝は投獄、帝都に潜む信徒数千人が処刑されました。
事の次第を知った張角は、自らを「天公将軍」、次弟張宝を「地公将軍」、末弟張梁を「人公将軍」とし、計画を一ヶ月繰り上げて蜂起しました。これにて、かの有名な「黄巾の乱」が起こりました。
次の更新で、後漢VS黄巾党の結末を述べますが、主役級の人物たちが登場します!次回もお楽しみに!